ぼくが嫌いなもの
先日、彼女と電話をしているとき「あなたは”これはいや”ってもの、ある?」って聞かれた。
僕は「クチャラーとご飯粒をたくさん残すやつが生理的に無理!笑」って答えた後にしばらく考えてから、「ちゃんとごめんなさいが言えない人は苦手かな」って言った。
そのことを思い出しながら、”自分の嫌いなもの”について考えていた。
彼女の前では嫌われたくなくて”人をコケにして笑いをとる人”が嫌いって言えなかった。なぜなら、僕にもそういう部分があるからだ。普段はそういう部分が出ないように心がけて入るけど、どうしても出てしまうことがある。
例えば、自分がどうしても見下してしまうような要素を持っている人が媚びたオーラを出しながら接してきた時とか。
だから、”人をコケにして笑いをとる人”が嫌い
っていうのは”自分にも嫌いな部分がある”っていうことも同時に表しているって、この文章を書きながら気づいた。
どうして、こういう”クセ”って直すのが難しいんだろうね。
これは僕の想像に過ぎないんだけど、きっと人の脳の回路は特定の場面に対して反射的に特定の出力をするようにできてるんだと思う。そしてその回路は使われる時間と回数に比例してどんどん強くなっていく。
そこで、僕のこの人を馬鹿にしてしまう回路は、いつ生まれたのかってことが気になるようになる。
きっと小学校の時にさかのぼるんじゃないかな。
僕が所属していた野球チームの同い年のメンバーは人を馬鹿にするような子ばかりで、その子たちとその親が幅を利かせていたから、人間のコミュニティーで幅を利かせて快適に過ごすには人をこばかにするような人になるのがいいのだと勘違いしてしまったのが原因なんだと思う。
”自称常識のある”僕の親は、特に母親は、イケてる人間には見えなかったし。
その親が言うことに説得力が感じられなかったんだろうなぁ。
子供の見てる、知ってる世界っていうのは大人が想像するよりはるかに狭い。
だから、子供のころに”ゆがんだコミュニケーション”が当たり前のコミュニティに属してしまうと、それが当たり前だと思って成長してしまうんだな。知らんけど。
きっと、スラムで育った子供がギャングになりやすいっていうどっかで聞いたことがある話もそれと関係があるんだろうな。しらんけど。